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江戸期の日本は「小さな政府」時代だった。中央においても地方においても、町場においても農村社会においても、いまでいう民間が行政の末端を担っていた。もっと言えば、行政執行部分の多くは民間であり、祭りや共同作業などの社会的行事や事業のほとんどは民間が実施していた。とりわけ有力町衆や豪農などの所謂「旦那」の役割は広範に及んでいた。とはいえ、その役割は社会的に確たる規範があったわけではなく、そのため地域や個人の個性により様々な「旦那文化」が花開いた。

旦那文化の及んだ領域は政治、行政、経済、教育、文化の多岐に及び、 更に注目すべきはこの流れは明治期に入っても細々と続き、 完全に消滅したのは第二次世界大戦終了時であったことである。ただ、現在コーポレートシティズンが叫ばれるようになり、改めてその道筋の参考となるのが「旦那文化」の有り様ではないだろうか。

小布施の旦那文化

天明蔵(災害からの復興策)

Tenmei-gura

天命の飢饉に際し第10代市村作左衛門(高井鴻山の祖父)は炊き出しは勿論のこと、その後数年がかりで文庫蔵の建築普請をおこないました。これは当時珍しい事ではなく、信州から東北にかけてこの時期に造られた庭園や建築物が多いと思います。つまり、典型的な「小さな政府」時代だった江戸時代は、災害対策や復旧に留まらず復興策にも民間が乗り出していました。こうした時こそその富を使うというのが分限者の心得であり、旦那文化の一端でした。

北斎と鴻山の関係

Hokusai

天保2・3年頃、焼失した岩松院本堂再建工事に際し北斎は小布施に来訪しました。その後の来訪は数度に及びましたが、二人の関係は鴻山は北斎を「先生」と呼び北斎は鴻山を「旦那様」と呼んでいました。小布施に残る岩松院や祭屋台の天井絵はこの二人の関係性の中から生まれました。単に資金を提供しただけでなく、色々な事が話し合われた結果の作品であり、上町祭屋台波濤図の縁絵のモチーフなどはこうした証であると同時に、現在の我々に「謎」を提供してもいます。旦那は資金のみならず、感性や教養も提供する存在でもあります。
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知的文化サロン「ゆう然楼」

Yuzenro

北斎との交流の場であったゆう然楼はその後、佐久間象山・藤本鉄石・久坂玄瑞などの政治活動家たちとの激論の場にもなりましたし、河鍋暁斎・其角堂永機(俳人)・梁川星巌未亡人紅蘭などの文人墨客との知的交歓の空間にもなりました。そしてその場には地元の方々が同席する事も多かったでしょう。つまり、地元に時代の波や知的刺激などをもたらすサロンの主宰も旦那の役割として重要なことでした。

い軒(職人レジデンス)

Hekiiken

北斎の小布施滞在中のアトリエ兼アートレジデンスを碧い軒といいます。「碧い」とは盛唐の詩人で鬼才といわれた季賀の江南の春を詠った詩の一節から採ったもので、千曲川に菜の花が咲き乱れていた当時の小布施の風景をこの詩に見立てて命名したものです。
ところでこのレジデンスは碧い軒以外にも当時は数軒あったらしく、桝一市村酒造場本店前にある佐藤邸がその一つです。長期滞在の職人等が仮の暮らしをしていましたが、こうした外の人々が常にいた事は小布施の人々にとって文化交流或いは異文化吸収の機会となり重要な存在でした。

倶楽部(大正ロマン)

Kurabu

大正時代は大正デモクラシーそして大正ロマンの時代でした。そんな時代の気分は小布施にも漂い、現在の桝一市村酒造場店舗は「倶楽部」と呼ばれた町内の若者達の溜り場でした。映画とはいかないまでも幻灯会なども開かれ、娯楽や議論の場として機能していましたが、残念(?)ながらその場所が表通りに面していたため、大正末には店舗に改装されその短い命を終えました。小布施町内に輸入自転車ブームが起こり、ラーレイ派とトライアンフ派がお互いに競っていたのはその時代の事でした。
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五町の小作地

Tenancy

江戸時代の小布施村は今より小さく、現在大字小布施といわれている地域でした。俗にこれを五町と呼んでいましたが、この五町の共同所有の小作地が戦後の農地解放まで存在しました。明治以後も村役場とは別に五町には小作料という財源があり、伝統的な祭である「安市」などにはこの財源を放出していたそうです。こうした村役場とは異なる「公」が存在し、それらの差配も旦那衆の務めだったのです。

江戸時代の婦人参政権

Female suffrage

江戸時代、武家社会以外(人口の93%)の一般社会は必ずしも男性中心社会ではありませんでした。例えば、文久・慶応年間の小布施は名主を自作農が選挙(入札)で選んでいました。その当選(落札)者に対する委嘱状をみると、小前一同の連署がありますが、十人に一人くらいの割合で女性の名前があります。つまり一家を代表するのが女性(多くは未亡人だと思われるが)である場合も珍しくないということです。婦人参政権は江戸時代から存在したともいうことができます。

小布施の祭屋台

Matsuri

小布施には祭屋台が7基ある。そのうち上町と東町の屋台の天井絵が北斎作であることから有名であるが、江戸時代は中町の「ギヤマン屋台」のほうが豪華なものとされたらしい。ギヤマン製の棒で出来た簾状の天井や壁で覆われた屋台は、確かに当時のギヤマンの高価さからすれば当然そういう評価も妥当だったでしょう。しかしそれらの屋台全てが寄付で出来ていることを思えば、当時の人々の心意気が伝わり、それにひきかえ今の我々は・・・・と反省せざるを得ません。
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豪商と市場町

Market town

小布施のなかでも大字小布施地域(五町)は市場町として17世紀前期に誕生した新開地です。当初は地元の産物を中心に商っていた小布施商人も徐々に全国規模で品物を動かすようになり、江戸末期には江戸や大阪や越後高田などに拠点を設ける豪商も育ってきます。そうした全国規模の情報や感性が、政治や経済に留まらず文化や教養などにも好影響をもたらしました。北斎の来訪はそうした流れの賜物ともいえましょう。

公の場(パブリックスペース)

Public space

北斎は祭屋台や寺院(岩松院)の天井絵を描くために小布施に来ました。80歳を超えてなぜわざわざ60里の道をいとわず来たのかというのは一種の謎です。しかし何れもパブリックスペースであることは注目に値します。つまり単に「金は出すから絵を描きに小布施に来てくれ。」と依頼しても果たして北斎は応じたか。12代高井鴻山の上町や東町という一種の「公」の所有する屋台の天井絵とお寺の天井絵というみんなが目にすることの出来る場所の絵の注文だったことが、北斎の心を動かしたのではないかと我々は考えています。

明治初頭の教育活動

Education

明治の新時代を迎え12代鴻山は教育の重要性を痛感し、明治5年の学制発布に至るまでの時期には邸内に郷学校を設置しました。その一方自身は上京し、文部省や東京府に出仕した後、明治9年には芝の西久保巴町に私塾高井学校を開設し、明治12年には長野に高矣義塾を開いて青少年教育に情熱を注ぎました。
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